「庵治石」とは?

香川県高松市の北東部、源平合戦の舞台で有名な屋島の対岸に位置する霊峰・五剣山。山腹には四国霊場第85番札所・八栗寺があり、地元では八栗山とも呼ばれています。その山麓の庵治町・牟礼町で採掘されているのが、最高級銘石「大丁場 庵治石」です。

「最高級銘石?」「石はどれも同じなのでは?」と思われるかも知れませんが、実は石にもさまざまな優劣や個性があります。

庵治石の主な用途は墓石やモニュメントです。業界では墓石の大きさや価格を算出する基準として「切(才)」という体積の単位を使用します。1切は1立方尺(1尺=30.3㎝)ですから、それをメートル法に換算すると、およそ30㎝×30㎝×30㎝という大きさになりますが、その大きさの庵治石がどのくらいの価格なのか?
石の等級にもよりますが、主に墓石用に出荷される3つの等級のうち、一番低い「中目」で切当たり数万円、一番高い「細目(こまめ)」では切当たり十数万円にもなります(中間の等級は「中細目」と言います)。しかも、これは地場の加工メーカーが採石業者から仕入れる原材料費のみの金額です。

では私たちが庵治石の墓石を建てる場合、一体どれくらいの金額になるのでしょうか?
墓石の大きさにもよりますが、原材料費だけでも最低数十万円はしますので、それを職人の手で加工して、表面を仕上げ、文字を彫り、墓地へ運び、据付け作業を行うまでとなると、どうしても百万の単位の予算となります。さらに最上級の等級のものや大きいもの(長さで3尺以上、大きさで5切以上)、デザインの凝ったものであれば割り増しとなり、高級外車1台分以上の金額になることも稀ではありません。これが「御影石のダイヤモンド」「墓石の中のベンツ」と呼ばれる所以でもあります。

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「庵治石」の誕生

もともと瀬戸内海や中国地方は花崗岩の産出地として有名ですが、その基盤となる岩盤はおよそ1億年前から6500万年前の白亜紀後期に形成されたものと言われています。地下深くでマグマが冷え固まり、変成し、その後の地殻変動によっておよそ2000万年前に五剣山の山麓に現れたのが庵治石です。

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「庵治石」の歴史

京都・石清水八幡宮の宝殿や拝殿などを再建するため、暦応2年(1339)に「讃岐国鴨部庄」から石材を運んだとする記録が残っています。鴨部庄は、現在のさぬき市志度町鴨部のことで、そのすぐ西側に庵治町と牟礼町の採石場があります。鴨部も牟礼も当時の石清水八幡宮の領地でしたので、庵治石は平安時代から京都に運ばれていたのではないかと推察されています。

江戸時代初期には高松城築城や大阪城大改修に、江戸中期から明治期にかけては塩田の石垣や石釜などに大量に使われました。松山の道後温泉は、日本書紀にも登場する我が国最古の温泉として知られていますが、道後温泉本館にある皇室専用の湯殿「又新殿」(明治32年竣工)の浴槽と湯釜もこの庵治石でつくられています。
神社仏閣では、高松市・弘憲寺にある五重塔(昭和25年)が有名で、5人の石工が3年がかりで完成させたものと言われています。日本一大きい石鳥居は、愛媛県宇和島市にある和霊神社の大鳥居(高さ15m)ですが、これも庵治石でつくられています。

現在の首相官邸は平成14年に竣工したものですが、首相の執務室がある5階フロアの石庭などにも庵治石が使用されています。また、個人名は公表できませんが、政財界、スポーツ界、文化人など各界の著名人のお墓にもたくさん使われています。これにより、時を越えた思いを刻むのに 相応しい「天下の銘石」として不動の地位をものにしました。

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「庵治石」の特徴

庵治石は、鉱物の結晶が極めて緻密で、その硬さはガラスや鋼鉄なども傷つけられる水晶(石英)に匹敵します。この緻密で堅さにすぐれた組成は、耐久性が求められる墓石だけでなく、仏像などの細工にも適しています。加工が難しく「職人泣かせの石」と言われる反面、細かな彫刻を施すことができ、吸水性が低く風化・変質に強いため、五百年前の文字が残る例もあるほどです。石目の等級は上から順に細目・中細目・中目の3つに大別できますが、とりわけ丹念に磨き上げた細目の表面は、あたかも霞みや群雲がたなびいているかのように見えるのが特徴です。この幻想的な模様は一部の庵治石だけに見られる独特のもので、きめ細かな石肌のなかに含まれる小さな雲母が、平らなはずの庵治石の表面に水墨画のような奥行きの深さをもたらしています(ただし、すべての庵治石にこの模様が浮き出るわけではありません)。

業界用語で「斑(ふ)が浮く」と表現されるその類まれな美しさは、日本人の洗練された美意識や情感に訴え、日本文化に見られる命の儚さや詫び寂びなどに通じるものとして、多くの人々に永く愛されてきました。

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「庵治石」の弱点

そんな庵治石にも弱点があります。それは大材が採れにくいということです。これは庵治石の岩盤内に南北・垂直方向に走る「カサネ」と呼ばれるキズ(亀裂)が多いためで、およそ30万tの年間産出量のうち、厳しい検品に合格して製品として出荷できるのはわずか3%程度と言われています。庵治産地の工場では、「最高級」の名に恥じない商品を出荷するために、丁場で厳しく吟味された原石から墓石の部材をつくり、すべて揃えてから仮組みを行い、色合い・目合い・斑のパターンなどを厳しくチェックしています。庵治石が他の石と異なるのは、一度で合格する商品がほとんどないほど厳しい目で選別をしているところです。実際に職人たちが「1本の墓石を仕上げるのに平均2~3本分の仕事をしている」と言いうように、「色の揃い、目の合わせ、斑のパターン」が納得できないという理由で、何度もつくり直すという手間を掛けて完成しているのが庵治石の墓石なのです。庵治石の墓石の値段が高い理由や完成までに多くの期間を要する理由はこういったところにあるのです。

しかし、それでもなお多くの人が庵治石で墓石を建てたいと思うのは、石とそこに命を吹き込む人々の姿に価値があると感じていただけているからではないでしょうか。ある意味「成功の証」として後世に名を残すものとなっている部分もありますが、それは「生前お世話になった、あるいは本当に大切な人、大好きな人を最高の形で弔いたい、供養したい」というお施主様の切なる気持ちの表れでもあるのです。

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聖域 大丁場 「庵治石細目」の7~8割は大丁場から

銘石「庵治石」の中でも、最高級と評される石が「大丁場」で採掘される「庵治石」です。庵治産地には現在、大丁場・中丁場・庵治・野山の4地区に採掘場があり、全部で33軒の採掘業者が存在します。およそ450年続くとされる一番古い採掘場が大丁場地区(細目8軒、中目1軒)で、細目の7~8割がここで採られています。石の層もさることながら、岩盤の角度や石の採りやすさという点でも大丁場は群を抜いています。

大丁場はもともと讃岐藩松平家(旧高松藩)の所有する御用丁場で、ここから切り出される「御用石」は、高松城の工事のほか、藩主が建立した墓石や灯籠など各地に残る石造物にも数多く使われました。その後、明治期の廃藩置県とともに封建制度が改められると、この御用丁場は旧高松藩の筆頭家老(大老職)であった大久保家の所有となり、この頃より「大丁場」と呼ばれるようになりました。

数ある庵治丁場の中でも特に厳格に管理され、地元の業者でも簡単に立ち入ることのできない 「聖域」が大丁場です。他の丁場と一線を画す形で厳格に管理された丁場から生み出され、庵治の名工達の手によって魂を吹き込まれた墓石が「大丁場 庵治石」の墓石なのです。

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日本石材センター株式会社がお届けする
「大丁場 庵治石」

前述のとおり、庵治石細目の7~8割が大丁場地区から採掘されていますが、どの石材店も大丁場の採掘業者またはその取引先の工場から簡単に仕入れができるわけではありません。
「大丁場の細目」は、その希少性と特殊な流通事情により、古くから付き合いのある石材店や販売実績のある卸業者でないと扱えないのが慣わしとなっています。これは流通ルートをある程度制限することで品質管理とトレーサビリティを行うとともに、産地の状況(採掘・加工・原石の在庫状況など)を正しく伝え、一般消費者の混乱を防ぐためでもあります。
そのため、大丁場の庵治石を取り扱うことができる業者=信用のある石材店、卸業者である証となっている部分もあるくらいです。石そのものの価値を追求するだけでなく、サプライチェーン全体の価値を高めながらお客様の満足につながるブランド構築に取り組んできた山元の姿勢が、この「大丁場 庵治石」の希少価値を一段と高めています。各界の著名人をはじめ多くの人が最高級の庵治石で墓石を建てたいと思うのは、それだけの価値があるからに他なりません。ある意味「成功の証」として後世に名を残すものとなっている部分もありますが、それは「生前お世話になった、あるいは本当に大切な人、大好きな人を最高の形で弔いたい、供養したい」というお施主様の切なる気持ちの表れでもあるのです。

「大丁場 庵治石」の供給においては卸業者の責任も重大です。現在でも「大丁場 庵治石」は誰もが簡単に扱えるわけではありません。庵治産地とどれくらい長く取引しているのか(実績が多いほど融通が利く)、日頃からどのような信頼関係を産地と築いているのかはもちろんのこと、常に新しい情報、正しい情報を入手することができているか、それが等級の良し悪しや納期、何かしら問題が起きたときの対応の早さなどにも影響してくるからです。お客様に最高級の「庵治石」をお届けするためには私たちも洗練された卸業者であり続けなければなりません。

日本石材センター株式会社では1966年の創業以来、「敬天愛人」の経営理念の基、石材店と国内外の産地を結びつける良きパートナーとなるべく、その責務を全うして参りました。とりわけ国産銘石については長年全社を挙げて大々的に取組んでおり、産地の最新情報を常に把握し、取引先とも良好な関係を築いております。皆様の大事なお客様に、最高級銘石「大丁場 庵治石」で、最高のご満足を提供するためにも、どうぞお近くの弊社営業所にご用命ください。

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彫刻家イサム・ノグチが愛した庵治産地

庵治産地は、日系アメリカ人の有名彫刻家イサム・ノグチ(1904~1988)によって、世界的に知られる存在となりました。ノグチは、フランス・パリにあるユネスコ本部日本庭園の作品素材に庵治石を使ったことをきっかけとして、1969年、牟礼町にアトリエと住居を構え、そこを日本での制作拠点として数々の名作が世に生み出されたからです。日本国内では、札幌大通り公園にある「ブラック・スライド・マントラ」、土門拳記念館中庭(山形県酒田市)の「土門さん」、東京・赤坂の草月会館ロビー「天国」、広島・平和公園の東西両端に位置する平和大橋・西平和大橋の欄干、札幌のモエレ沼公園(遺作)などを手掛け、新高松空港の近くに設置された「タイム・アンド・スペース」は庵治石を使った代表作として知られています。そのアトリエと住居は現在「イサム・ノグチ庭園美術館」(事前予約制)として一般公開されており、毎年、国内外から多数の観光客が訪れる人気スポットになっています。

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庵治産地を支えるもの

日本の自然美が詰まった庵治石が、数ある国産石材のなかでも特別な存在であることはご理解いただけたでしょう。しかし、庵治石が「世界に誇るブランド」に成長できた真の理由は、鍛え抜かれた庵治産地の名工たちがそれを「最高級銘石」の名に恥じない最高の状態でお客様に提供し続けてきたからです。最高の満足を提供するため、お互いに協力し合い、あらゆる努力を日々続けてきたからなのです。
採掘場では長年培った経験と勘で石の良し悪しを見極め、工場では古来受け継いだ匠の技を駆使して、妥協せず、深い愛情をもって、一つひとつに命を吹き込んで製品に仕上げています。その仕事に誇りを感じている彼らは、1日1日を大切に考え、1分1秒を真剣に向き合い、何ごとも一生懸命に取り組んでいます。庵治石には、そんな爽やかで素敵なエネルギーが注ぎ込まれているのです。

私たちの願いは、多くの人に庵治石で墓石を建てたいと思っていただくこと、より多くの人に庵治石で墓石を建てて本当に良かったと感じていただけることです。

「大切な人を最高の形で弔いたい、供養したい」という切なる気持ちを庵治産地全体でお手伝いいたします。

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「庵治石」のCM

「庵治石」をテーマにしたこのCMは、庵治の街の景色と、音と、匂いと、人を伝えてくれます。
庵治石の職人たちは口を揃えて言います。「庵治石は世界一の石だ」と。この街の「情景」と「物語」すべてが「庵治石」であり、このCMから本物の庵治石職人の喜怒哀楽、丁場の迫力、庵治石の神秘、町の息吹を感じていただけると思います。「庵治石」を通じて、墓参りという日本の伝統文化、日本のモノ作りにたずさわる人々について想いを馳せていただければ幸いです。

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